ドイツ史
「とんでもない!私が再軍備をするかもしれないなんて疑わないでくれ!私はこれからも約束を守るつもりだ!」などと言いつつ、こっそり……。 戦後、ヴェルサイユ条約によってドイツでは軍備に制限がかけられたそうですが、条約に反して軍部では軍備の強化が行…
肩身が狭い社会主義労働党 肩身が狭い社会主義労働党 その2
政党制を否定し、真のドイツ人民の共同体の実現を目指したパラミリタリー
鉄兜団の団員たちは1914年の数年間、前線で戦った経験のある退役軍人が主であったわけですが、彼らのその経験が団の思想や方針の核になっているようです。
赤ども=赤色戦線戦士同盟 赤色戦線戦士同盟との街頭闘争は相手を制圧するよりだけでなく、自分たちを誇示する=プロパガンダすることも目的にしていたということで。そのため、突撃隊と赤色戦線戦士同盟との闘争ではそれほどまでに犠牲者はでなかった模様。…
パラミリタリーの中でも殴り合いをしていた赤色戦線戦士同盟と突撃隊
「終わりだ」同じ右派である国家人民党はナチ党と連合を組んでおり、後者の望んだ「全権委任法」の成立にも一定の役割を果たしたのですが、勢力としては衰退していました(中央党よりも)。もはやナチ党にとっては用済みとなってしまったようで、自主解散に…
独立社会民主党結成時、スパルタクス派も社会民主党から離れてこの新党に参加したのですが、「独立社会民主党を前進させるためにその鞭の届く範囲にいることにした」という主旨のリープクネヒトの言葉が書かれていまして。
「手詰まりだ」1933年、「ライヒスコンコルダート(政教条約)」締結の直前に中央党は自主解散しました。 同条約にはカトリック教徒の政党参加を禁止するという内容が含まれており、 また条約締結の交渉には中央党の関係者も参加しており、 その影響で中央党…
ロシアでの革命のように、ドイツでも革命を起こそうともがくも、思うようにいかない様子がなんともエモい。
ヴァイマル共和政の終わり頃(ナチ党による独裁政権樹立の直前とも言える)。 勢力を拡大するも議会で十分な議席を得ることができなかったナチ党からすれば、右派の国家人民党に加えて中央党の協力も必要であり、中央党としても大衆政党となっていたナチ党を…
帝政末期のドイツ保守党&帝政政府。本読んだ時の印象です。保守党が妥協して他党と連合を組まず、多数派を形成することができなかったというの、帝政が崩壊した一因な気がしてなりません。
だいたいこんな感じの印象国家人民党と独立人民党(と、ナチ党も?)は枠外にいる(はず)
1875年、ドイツのゴータにてラッサール派とアイゼナハ派の政党が合併する形で設立した「ドイツ社会主義労働者党」。のちのドイツ社会民主党である。
「国家人民党と……」 これはただのメタ
統一された強いドイツのために先陣を切る
「帝国の敵」である社会民主党と帝国政府
「結束するな危険」(かなり怪しいイタリア語) 特にテーマはないファシスト党&ナチ党
1887~90年の間、議会内で多数派を形成させるために、ビスマルク支持のもとで作られた同盟。但し自由主義右派政党である国民自由党としては、致し方ない妥協でもあった模様。 おまけの保守兄弟ツーショットバージョン 立ち絵並べただけのカルテルトリオ
中央党の方はカトリック信徒の支持を中心に集めて議席で十分な席を獲得したこともあり、文化闘争で争ったビスマルク(政府)からの弾圧が緩和されていったが、一方で社会主義労働党の方は厳しく取り締まわれるという話から。…むしろ政府としては、反社会主義…
ただのレギ-ル レギールとドイライト(帝国党)
「継続か解散か」―――1879年、社会主義者鎮圧法を受けて。
国家人民党(旧保守党)と人民党(旧国民自由党)は、 自分たちが影響力を持っていた帝政を求める傾向にありました。 そんな中、共和政政府の運営の中心になり得たのは左派の社会民主党 (そしてそれを含むヴァイマル連合)でした。
近代的な政党として、党内で脱宗教化するべきだという論もあったようです。
1918年の11月に革命が置き、帝政が倒されるという大きな政治的変化中、ブルジョワ政党のうち保守派は合流して国家人民党を結成。自由主義側でもドイツ民主党のもとでの結託が呼びかけられた…が、国民自由党の多数(右派)は人民党として再出発することに。一…
共和政樹立に際し、合流する動きがあったようだったが結果は…。
帝国政府 意味もなくいけずな顔をしてる中央党 ゾツィ 保守党
自由主義左派の進歩党VS自由主義右派の国民自由党 を傍観する保守党と帝国党
政府による弾圧がための地下活動から解放されて、社会主義労働者党が新しく社会民主党として再出発する時のイメージで。一応。画中のドイツ語は社会民主党のドイツ語Wikiから引用してます。